学芸員室の雑記帳

牛鍋と牛丼

今年度から社内セミナーを企画し、歴史コンテンツの社内発信を試みています。先週2回目を開催し、創業者後藤武夫について話しました。波乱万丈な創業者の人生を30分にまとめるのは至難の業で、泣く泣く割愛した部分も多くあります。

創業者は18歳のときに上京し、20歳前後は酒での失敗を繰り返し、各地を放浪しながらさまざまな人生経験を積みます。その皮切りとなったのが、上京早々悪友に連れられていった筑土八幡の「いろは」という牛鍋屋です。ここで酩酊したのが運の尽き、その後近くのそばやなどをはしごし、果ては根津の遊郭へと繰り出し、一晩で仕送りをすべて使い果たします。筑土八幡といえば神楽坂のすぐ先、史料館と同じ新宿区内です。今は駐車場となり、跡形もない「いろは」ですが、その後も自伝の中に名前が出てくるところを見ると、懲りずに何度も訪れていたようです。現在放映中の朝ドラ「らんまん」でもことあるごとに牛鍋屋が登場し、万太郎たちが美味しそうな牛鍋をつっついています。

社内セミナーの前日は、社外向けに古文書講座を開催し、関東大震災への思いを書いた当時の社員の手記を読みました。調査員であった彼は、震災直後の昼飯は玄米の握り飯であったのが、直に白米の握り飯に変わり、その後、10銭の牛めし、15銭の牛丼、果ては天丼・親子丼と贅沢をするようになり、1年経った現在では復興への気概がすっかり緩んでしまったことを嘆いています。ここで気になるのが、牛めしと牛丼の違い。牛めしも牛丼も、牛鍋をご飯にのせた全く同じ料理です。地域や店舗によって呼び方が違うといいますが、手記によれば、両者には5銭の差があり、明らかに牛丼の方が高級ランチです。関東大震災後には、手軽に食べられる牛丼を販売する露天や屋台などが爆発的に増えたといいます。手記からはそういった時代背景も垣間見ることができます。

創業者が上京し、牛鍋屋で酩酊したのが明治20年(1887年)。それから37年後の大正13年(1924年)、牛丼全盛期に至る過程を、図らずも連日のセミナーで辿ることになりました。天丼・親子丼が牛丼より高級食であったことも意外であり、鰻丼はどのくらいの立ち位置にあったのかも気になります。

もうすぐ丑の日。30日は鰻丼、ないしはうな重(特上)をいただきたいです。